四谷住まい

大阪でのヴァンヂャケットの成功に自信をもった石津謙介は、東京に進出する。
東京港区愛宕町の事務所を皮切りに、1955年(昭和30年)に東京日本橋に東京営業所を設立。
これを機に石津家も一家を挙げて東京への移転を果たす。最初は麹町に借家を借り、家族5人が住んだ。

当時謙介は、メンズビジネス拡大のための戦略として、婦人画報社(現アシェット婦人画報社)が発行する『男の服飾読本』(後の『メンズクラブ』)の企画や執筆にも力を注いでいた。
撮影のディレクションまでこなしてしまう謙介にはスタジオが必要だった。そろそろ家も建てたかった。そんな時、同じ婦人画報社が出している家とインテリアの建築誌「モダンリビング」編集部が、「人間らしい生活の場としての快適な"住まい"はいかにしてつくられるべきか」という編集コンセプトを実践すべく、「試作住宅」を造ることを誌上で発表する。
それは編集部が建築家と住み手の仲立ちをし、実験的住宅=「ケーススタディ・ハウス」を建てるという斬新な企画だった。その実験的住宅の施主として謙介に白羽の矢が立った。

建築家は池辺 陽(いけべ・きよし 1920~1979)。丹下健三とともに戦後の東大建築学科を代表する建築家である。住宅作家・池辺は「立体最小限住宅」として戦後住宅の名作を数々手がけ、全ての作品にNo.をつけた。
1957年(昭和32年)2月着工、そして8月に四谷三栄町の約40坪の土地に建坪15坪(当時流行し始めた、いわゆる「団地」サイズ)という小さな実験的住宅 石津邸が竣工した。
「ケーススタディ・ハウス第一号」「池辺作品No.38」である。

いまでこそコンクリートの打放しの家は珍しいものではないが、当時は「驚くべき外観」であったという。数々の雑誌インタビューで謙介は語っている。「もう完成しているのに、近所のひとがいつできるんですか?って聞きにきましたよ(笑)」。
ガラス張りの開口部が大きく開かれたワンボックスの建物は外から丸見え。しかし、謙介も子供たちも一切気にならなかった。「我々は中国からの引揚者で、日本の家屋にずっと住んできたわけではありませんから抵抗はなかったですよ。順応性は高かったですね」と長男、祥介は当時を振り返る。

最初は家族5人で住んでいたこの家も手狭になり、息子たちは徐々に近所の借家に住みだす。
そして昭和40年(1965年)長男祥介に長女が誕生したことから、翌昭和41年、謙介夫婦はこの実験的住宅を祥介家族に明け渡し、帝国ホテルのアパートに移住することになる。