兄 石津良介

謙介には4つ違いの兄「石津良介」がいる。
この兄も、中学時代人気者だったから、謙介は石津の弟ということでずいぶん上級生にかわいがられた。
学校の休み時間になると、謙介は友だちと遊ぶより兄のクラスに入りびたっている方が多かった。
良介は、1年間京都で予備校生活を送ったのち、慶応義塾大学の経済学部に入学した。
彼は長男だから、将来は家業の紙問屋を継ぐのが道理なのだが、大学へ入るとすぐに爆弾宣言をやらかす。「オレは慶応の経済に入ったんだから、もう田舎に帰って紙屋なんかやらんぞ」と。
その頃の慶応の経済といえば非常に立派なものだったし、良介は一度こうと決めたら誰が何といおうと後には引かない、という性格だったから石津家は大混乱。謙介は父に「中学を出たら店を継げ」と言い渡されるが、母緒長の調停で父子の妥協案が成立する。
その妥協案とは、六年制の大学ではなく三年制の短期大学にすること、卒業後は必ず家にもどり家業の紙問屋を継ぐことという条件。謙介は泣く泣くこの条件を呑むことになった。
兄良介の謀反によって、謙介の人生の歯車は大きく組み換えられてしまう。

兄良介はやがて、当時では珍しかったカメラマンの道を志し、一時松竹キネマに入社。
岡山に戻って結婚後、岡山在住の写真家と県下で初の写真家集団「光ト影の会」を結成する。
やがて、当時写真出版界で頂点にあった「アルス出版」に誘われ上京。
同社の「カメラ」や「写真文化」誌の編集長を務め、土門拳を世に紹介するなど、謙介のファッション界の活躍と同様、あるいはそれ以上、写真界に大きな功績を残した人物となる。
      画像をクリックで拡大


Wikipediaによる紹介
石津 良介(いしづ りょうすけ、明治40年(1907年) - 昭和61年(1986年))は、日本の写真家。
ファッションデザイナー・石津謙介の兄。

岡山県岡山市片瀬町(現・岡山市北区天瀬)の老舗紙問屋「紙石津」の長男として生まれる。
慶應義塾大学経済学部に入学。在学中に家業を継がないことを宣言し、これにより弟の謙介が家業を継ぐ羽目になった。
昭和7年(1932年)大学を中退。帰郷し写真家を志す。一時期、松竹キネマに入社。
昭和9年(1934年)岡山在住の写真家・大森一夫、山崎治雄らと県下で初の写真家集団「光ト影の会」を結成(のちの岡山県知事・長野士郎が旧制第六高等学校時代、石津に憧れ同会に入会している)。
昭和12年(1937年)「光ト影の会」を「中国写真家集団」に発展させ、中国地方在住の写真家が参加した。「中国写真家集団」の展覧会を毎年東京で開催し、植田正治、緑川洋一、野村秋良、正岡国男らを著名にした。なお、この展覧会は昭和15年(1940年)に4回で終了している。
昭和13年(1938年)アルス出版の雑誌『カメラ』編集長高桑勝雄の誘いで上京し、中国写真家集団を大森一夫、山崎治雄らに託し、同誌の編集者となった。
この頃、安井仲治、評論家の伊藤逸平、桑原甲子雄らとの交流があった。
昭和16年(1941年)に『カメラ』、『カメラクラブ』(以上、アルス)、『写真サロン』(玄光社)が整理統合して、『写真文化』誌が誕生すると、のちにその編集長に就任した。『写真文化』では、三木淳の勧めにより、まだアマチュア写真界であまり知られていなかった土門拳を紹介した。
また昭和18年(1943年)9月号では柳田国男を招き、土門拳、濱谷浩、坂本万七らの写真家と「民俗と写真」のテーマで座談会を企画。
昭和18年(1943年)には中国に渡り、加藤恭平、林忠彦、大竹省二らと在北京日本大使館の外郭団体として「華北弘報写真協会」を設立し、日本の宣伝写真を撮影した。
昭和20年(1945年)北京で終戦を迎える。
昭和21年(1946年)中国より復員。岡山市内で歯科医を営んでいた緑川洋一と写真工房を開設。
昭和22年(1947年)東京で秋山庄太郎や林忠彦らと写真家集団「銀龍社」を結成。緑川や植田正治を会員に推挙した。岡山での活動を主として、アルス出版の編集者として東京にも活動の場を持った。
子供の撮影を多く手がけ、また、小豆島にも足繁く通い撮影を行い、現地写真展も開催。
また新成羽ダム等、高梁川流域の共同記録を指導し、現地写真展を開催するなど、晩年は自ら写真撮影を行うよりも後進の育成やアマチュア写真家の指導に尽力した。昭和61年(1986年)逝去、享年78。