そして結婚へ
昭和7年、明治大学を卒業した謙介は父との約束通り、岡山に帰り、石津紙店の若旦那に納まった。
そしてその年の4月、東京で同棲していた笠井昌子と結婚。謙介22歳、昌子21歳だった。
いまではずいぶん早い結婚のようにだが、当時としてはごく普通の年齢だった。
自宅の庭で記念撮影 謙介と兄良介の合同結婚式・石津ファミリー勢揃い
後列 左より 長男良介 次女滝川春江、滝川、渡辺、長女渡辺安子、謙介
前列左より 良介嫁正江 父定三 三女澄子 母緒長 謙介嫁昌子


結婚して、謙介のオシャレや遊びに一層拍車がかかる。
オシャレに関して本格的に贅沢をするようになったのは岡山に帰ってからという。
というのは、岡山には昔から家に出入りの呉服屋もあれば洋品屋もあり、散髪屋まで決まっていたので、何を買おうとツケがきくから、どんどんいい物をそろえた。
昭和9年から狂言を習い始めたこともあって、和服にはことさら凝った。

岡山は、芸どころというか割りと素人の謡とか狂言の盛んなところで、謙介は当時の岡山の狂言界の中心人物だった人の彼女の元芸者さんに手ほどきを受けて岡山の芸者の間では、ずいぶん顔をきかせるようになる。
また岡山の花柳界で知らぬ人のない遊び人、謙介の叔父にあたる、岡山電気軌道株式会社の社長、石津龍輔の指南で"石津さんのボッちゃん"と非常に大切にされた。
謙介の御茶屋遊びは、こんな風にして始まり、さまざまな芸者とのエピソードに事欠かない。
昌子に叱られることもたびたび会ったようだ。

そしてモーターボート、グライダーなど昭和初期には珍しいスピードのある乗り物に興味を持ち、自分で作り遊んでいた。