遊びに遊んだ大学時代

石津謙介の四つ違いの兄良介は慶応義塾大学の経済学部に入学。
本当は彼が家業の紙問屋を継ぐのが道理なのだが、「もう田舎に帰って紙屋なんかやらんぞ」と宣言。
そのため謙介は、卒業後は必ず家にもどり家業の紙問屋を継ぐという約束で、やっと東京の明治大学の専門部へ行かせてもらう。とにかく3年間は何をしてもいいと父は約束してくれ、仕送りの条件は非常にめぐまれていた。
この3年という東京生活は、謙介のファッションや遊びを一気に開花させた。

        謙介が手本とし、一緒に遊んだ映画俳優
     
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住まいは、兄のいた麻布十番から始まり、渋谷、神南、大森、小菅、船橋、御茶の水と計6回も引っ越す。
中野英治や鈴木伝明、岡田時彦など昭和初期に風靡した映画俳優たちをダンディズムの先生として背広のオーダー、シャツ、ネクタイ、靴、帽子に凝り、頭は当時流行りのセンター・パート。ポマードも舶来の最高級品をタップリと使っていたから、随分お金がかかったそうだ。

遊びは週に2日は横浜のチャブ屋通い、残り5日はダンス・ホールヘ直行した。
チャブ屋(注)というのは外国人船員の遊び場所でフランス映画に出てくる高級娼館のような雰囲気。
外国人相手の店ではあるのだが、日本人もいれてくれる。チャブ屋で遊ぶことができる日本人、というのはそれだけでひとつのステイタスだった。中野英治や、岡田時彦も常連だった。
横浜のチャブ屋というのは、そんな訳で外国人、日本人が入り乱れて遊んでいるという、非常にインターナショナルな雰囲気だったようだ。

当時のダンス・ホールは紳士の社交場だった。中でも有名な赤坂の"フロリダ"はフル・バンドが入り、最高に華やかな雰囲気で、本来学生なんかの行けるところじゃないようなところで、学生の謙介は踊り遊んでいた。

大学時代のスポーツはやはり小学校から得意中の得意の水泳だった。岡山は瀬戸内に面しているから、小学生の時からひと夏泳ぎっぱなしだった。
大学二年の夏初めて水上スキーを経験。といっても今のようなスキー板風のものではなく、戸板のようなボードに乗るものだったが、新しい経験ということで気分は壮快だったという。
冬はスキー一辺倒。毎年冬期のニカ月間は赤倉のスキー場にこもりっぱなしのスキー三味。最初はクロス・カントリー専門にやっていたのだが、後になってダウン・ヒルやスラロームに凝りだした。学生という特権を活かし、長期滞在したお蔭で腕はどんどん上達した。

(注) チャブ屋(ちゃぶや)は、1860年代から1930年代の日本において、日本在住の外国人や、外国船の船乗りを相手にした「あいまい宿」の俗称。
語源には諸説あり、英語の軽食屋「CHOP HOUSE(チョップ・ハウス)」が訛ったもの、という説が有力。ほかにアメリカ式中華料理を指す「チャプスイ」が語源、という説もある。
1階はダンスホールとバーカウンターでピアノの生演奏やSPレコードによる伴奏があり、2階に個室が並んでいた。横浜のチャブ屋が特に有名で、中区本牧の小港地区および石川町の大丸谷(現在のイタリア山中腹)に集中していた。
(Wikipediaによる)

資料:
みつ豆CINEMA
http://www.asahi-net.or.jp/~ia6t-tkhs/index.htm
日本映画俳優御写真
http://www.asahi-net.or.jp/~ia6t-tkhs/taisiyoeigahiyuumikan.htm