IVY TOUR AROUND USA
「マツダ360クーペ・アメリカの旅」Vol.1
いまから40年前の1961年の夏、4人の上智大学生が日本の軽自動車マツダ360クーペ2台でアメリカを1周した。当時のアメリカの車はV8で5,000CC超の大馬力エンジンにものをいわせて、ハイウエイを突っ走るという時代で、日本車はまだアメリカのハイウエイでは無理といわれていた。そんな中わずか16馬力の空冷2気筒エンジンをリアに積んだ軽自動車でアメリカを一周したというニュースは、一部ではあったが驚きをもって伝わったものだ。この自動車旅行のメンバーは、上智大学4年生の石津祐介をリーダーに、同じく4年生の犬飼研介、2年生の長谷川元、宮田清の4名で、石津はやがて卆業後VANの宣伝部長として数々の伝説的な宣伝キャンペーンを手がけることになる。
旅行の目的はあくまでアメリカ1周であったが、そのテーマは「アメリカン・キャンパス・ツアー」ともいえ云えるもので、特にアメリカ東部のアイビー・リーグのキャンパスを訪れて、学生達のキャンパス・スタイルを取材したいというものであった。では何故アイビーだったのか?何故アメリカのキャンパスだったのか?VANがアイビールックを提唱し、それが世の中に侵透し始めた1960年代初頭の日本にはまだアイビールックに関する資料は乏しく、その元となるアイビーリーグの学生達のキャンパスに於ける生活や服装などの情報も殆ど無かったといってよい状況であった。そこでアイビールックの提唱者であったVANの総師、石津謙介の次男であり、自動車気狂いでもあった祐介が、上智大の仲間と共に日本製軽自動車によるアメリカ1周の旅を計画したとき、その軽自動車マツダ360クーペのメーカーであった東洋工業(現マツダ)のスポンサーシップが得られなかったため、アイビーの本場アメリカ東海岸のアイビーリーグの大学を含むアメリカン・キャンパスの学生達の生活とその服装を取材してくるという名目でVANのスポンサーシップを得ることに成功し、この自動車旅行が実現したという。

ニューヨークはタイムズ・スクエアを行く
マツダ360クーペ

以下数回にわたり、この旅のリーダー石津祐介がアルバムから写真を選び出し、40年前の記憶をたどってアメリカ1周の旅に出ることになった。時は1961年8月に始まる。その年の11月初旬までの3ケ月余り、マツダ360クーペ2台はアメリカ中を走り回るのだ。アメリカン・キャンパスライフはもとより、灼熱の砂漠、ロッキーの山並み、テキサスの平原、ニューヨーク摩天楼の谷間と、ちっぽけな軽自動車が走り回るレポートをお楽しみください。
アイビーリーグの1つ、
プリンストン大学キャンパス。
  イエール大学
キャンパスにて

「マツダ・クーペ。こんなちっぽけな車でアメリカなんかを回ったら面白いだろうね」こんな単純な動機から我々の旅は始まった。
発想は単純だったが、実際に車を船に積んでアメリカに着くまでに丁度1年かかった。当時我が家には発売されて間もないマツダ360クーペが1台あった。しかし我々仲間は4人。クーペは2人乗りで2人が余る。もう1台どうしても必要だ。そこで我々はマツダ(当時の東洋工業)にスポンサーになってもらおうと計画。この旅行の言い出しっぺ犬飼研介と2人で東名高速道路も名神高速道路もまだなかった時代に、国道1号線を辿ってはるばる広島の東洋工業本社まで、マツダ・クーペで陳情に出かけようということになった。新幹線も高速道路もなかった時代には、広島は文字道りはるか彼方だったのである。当時日本唯一の動脈だった国道1号線は未だところどころが砂利道で、東京から広島まで突っ走っても1日ではとても着かない。2日目に疲れきってやっと到着した広島の東洋工業本社で待っていたのは、「何の経験もない学生が軽自動車でアメリカ1周なんて無謀としか言い様がない。」という冷たい返事。スゴスゴとまた東京まで2日がかりで引き上げた我々は次なる智恵を振り絞り、私石津の父が主宰する当時日の出の勢いであったメンズファッション・メーカーのVANにターゲットを絞り、VANの提唱するアイビールックのルーツを訪ねる旅という大義名分をでっち上げ、まんまとスポンサーシップ獲得に成功。もう1台のマツダ・クーペ購入分と旅の資金を得て、ようやく旅が現実のものとなった。当時の日本はまだ海外旅行は自由化されておらず、外貨も大蔵省の認可がなければ買えない時代で、このバリアーを突破するのがまた大変。上智大学長の認可をとりつけ、アメリカ中に散らばるイエズス会(カトリック教)の大学に親善訪問を要請し、各校から届いた招待状を大蔵省に示してやっと外貨の枠を獲得するまでにほぼ1年を費やす。横浜港から貨物船に車2台を積んで、同じ船でこの無謀な旅に向けて出航したときは、天にも昇る気持ちで「万歳!」を叫んだものだ。
横浜を出て11日目にロスアンジェルス港に着くまでは、全く見えるものなし。11日目に眼前にアメリカ大陸が忽然と現れた時の胸の高鳴りはもう筆舌に尽し難し。大袈裟にいえばコロンブスの心境か。翌日にはもう車2台は早速陸揚げされ、その場で税関検査をパス。日本のお役所の実に数百倍の簡単さに一同あっけにとられる。エンジンも一発でかかり、さすがにフリーウエイは避けて一般道を最初の宿泊先YMCAへと向かう。さあ、アメリカ旅行の始まりだ。
  出発を前にしてテントや寝袋等の装備を点検するメンバー。
左から石津祐介、犬飼研介、長谷川元、宮田清の4名。

スピードが出ない。この先大丈夫かな?
アメリカ全土のロード・マップを手に入れたり、最初に訪問する予定の大学2~3校と連絡をとったり、そして何よりも先ずアメリカの道路での運転に慣れるためにロスアンジェルスで10日間を費やした、最初はYMCAに2日間泊まったものの、YMCAは街の中心部にあるため車の駐車ひとつとっても不便なので、3日目にロス市内でも便利なビバリーヒルズのモーテルに移動。生まれて初めてホテルではないモーテルというものに滞在し、その便利さと安さに感心。以後各地でYMCA宿泊はとり止めてモーテルに泊まることに全員一致で決定する、ロス到着11日目にいよいよアメリカ1周のドライブに出発。先ず針路を北に向けサンフランシスコを目指す。ところがロス市内を抜けて家並みもまばらになる頃から、それまで快調に走っていた我がマツダR360クーペが2台共スピードが落ち、時速70キロ辺りで頭打ち。それ以上いくらアクセルを踏んでもスピードが上がらない。1号車を運転する石津と2号車を運転する犬飼が互いに顔を見合わせながら盛んに首を振るのみ。とうとう堪り兼ねてハイウエイ101(ワンオーワン)の路肩の草むらに車を乗り入れて、一同車から降りてみて驚いた。正面から立っているのが辛い程の強風が吹きつけているのだ。
アメリカ全土のロード・マップを手に入れたり、最初に訪問する予定の大学2~3校と連絡をとったり、そして何よりも先ずアメリカの道路での運転に慣れるためにロスアンジェルスで10日間を費やした、最初はYMCAに2日間泊まったものの、YMCAは街の中心部にあるため車の駐車ひとつとっても不便なので、3日目にロス市内でも便利なビバリーヒルズのモーテルに移動。生まれて初めてホテルではないモーテルというものに滞在し、その便利さと安さに感心。以後各地でYMCA宿泊はとり止めてモーテルに泊まることに全員一致で決定する、ロス到着11日目にいよいよアメリカ1周のドライブに出発。先ず針路を北に向けサンフランシスコを目指す。ところがロス市内を抜けて家並みもまばらになる頃から、それまで快調に走っていた我がマツダR360クーペが2台共スピードが落ち、時速70キロ辺りで頭打ち。それ以上いくらアクセルを踏んでもスピードが上がらない。1号車を運転する石津と2号車を運転する犬飼が互いに顔を見合わせながら盛んに首を振るのみ。とうとう堪り兼ねてハイウエイ101(ワンオーワン)の路肩の草むらに車を乗り入れて、一同車から降りてみて驚いた。正面から立っているのが辛い程の強風が吹きつけているのだ。
我々の2台の車には屋根に荷物用のラックが取り付けてあり、その周りにアルミの板をはり巡らして、そこにSOPHIAUNIVERSITY(上智大学)という文字とJAPAN-US GOOD WILL(日米親善の意)という文字がでかでかと書かれているのだ。この屋根の上の看板が抵抗となって、本来なら時速90キロは軽く出るはずの最高速度が20キロもダウンしてしまうことに気づいた。これはどうしようもない。故障でも何でもないことが分かって安心した我々は車に戻って再び北上を続ける。
最初の滞在地ロスアンジェルスでモーテルの便利さと経済性を知った我々は、その後宿泊はモーテルと決めていたので、夕方になると先ずモーテルを探し始める。ここと目をつけたモーテルに英語の一番得意な長谷川が入って行き、料金交渉に入る。当時普通のモーテルの平均的な料金は2人部屋で15ドルぐらい。こちらは10ドルでどうかと切り出す。すると向こうは14ドルとくる。そこでこちらは11ドルを提示。向こうは再び13ドルに下げてくる。もう1度こちらは12ドルに歩みよりそこで決着となる。当時の日本には妖し気な目的をもったモーテルはあったかも知れないが、車が交通の主役となっていたアメリカでは家族で旅行する一般観光客はもとより、町から町を売り歩くセールスマンなどを対象としたモーテルが何処の町にもあって、予約など無くてもVACANT(空室あり)というネオンサインの出ているモーテルはすぐに見つかる。モーテルは自分の泊まる部屋の前に車が止められるので、旅の途中で1泊だけする旅行者には便利この上ない。この旅行を通じて我々は90%以上をモーテルに泊まり、たまに装備として持っていったテントを張ってキャンプをしたり、訪問した大学の学生寮に泊めてもらったりしたものだ。1961年にはアメリカはまだ病んでおらず、マリワナやドラッグに明け暮れるフレワーチルドレンも人に危害を加えるイージーライダーも存在せず公園や空き地でのキャンプには何の障害もなかった。今では想像もできない良い時代だったのだ。

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