三宅一生さんとリトアニア五輪ユニフォーム  

 

日本外国特派員協会でのユニフォーム発表会の様子

 

 

1992年(平成4年)は、スペインのバルセロナでオリンピックが開催された年である。
その前年、謙介は大好きなデザイナー三宅一生から、相談を受けた。ソ連から独立したばかりのリトアニア共和国が、資金難のなか、それでもバルセロナ・オリンピックの参加を決めた。そして、ある個人ルートを通じ、選手団のユニホームのデザインと製作を三宅一生に依頼してきたのである。悲願の独立を果たした国のオリンピック出場への情熱に、三宅一生は感動しデザインを快諾する。

しかし、無償援助のユニホームづくりのために、具体的にどう動いていいものかわからなかったし、オリソピックのユニホームをデザインする、というのも初めてだ。そこで、幻になったモスクワ・オリソピックで中国のユニホームを手がけた謙介に、相談してきたのである。謙介は三宅一生の心意気に感銘し、スポンサーになってくれる企業の選定と交渉を引き受け、企業を精力的にまわった。すべて無償で提供し、且つ、そのことを宣伝としては使わないという、企業にとってはメリットのほとんどない条件をひっさげてだ。東レが素材を、製作はミズノが引き受けてくれたのは、三宅一生と謙介への共感と情熱の力だろう。

謙介はさらに、かつて中国選手団のユニホームをつくったときの経験をアドバイスする。オリンピック選手は、2メートル以上あるバスケット選手や、 150キロ以上ある重量挙げの選手、身長150センチに満たない女子体操選手……など、ユニフォ−ムを着る体型は実にさまざまで、それらを一つの「デザイン」に収めるのは難しい。「ようするに、一着で、どんな体型の選手にもフィットするユニホームができればいいのだが」難問ともいえるこのアドバイスに、三宅一生は自身のコレクションとして1989年に発表した「プリーツ・プリーズ」という素晴らしいアイデアで応えることになる。

1992年6月、このリトアニア・オリンピック選手団ユニフォームは日本外国特派員協会で発表され、美談ニュースとして世界に発信された。