私のかくし芸「狂言」

「狂言のこと」と聞いただけで、「ハイ、承知致しました」と簡単に返事したことを、今更のように後悔しながら、さて、私に、今の私に、狂言のことを語る資格、いや、そんな知識を持っていたのかなと、自問自答しながら、六十年程前に、それも面白半分に習った、あれが本当に狂言だったのだろうかと、今更のように考え直し、昔を思い出すのに一生懸命なのです。
岡山の商人の家に育った私は、少年時代から父親の感化で、あの「うたい」が好きだったのは確かです。小学五年の時に習った謡曲名だけははっきり覚えています。「鶴亀」だったか「高砂」だったか、それとも「羽衣」だったかなと。勿論、普段唱うのは小学唱歌。中学生の時は「浜辺の歌」を姉から教わって大得意。大学時代はやはりアメリカのジャズソングでした。そのくせ、今、流行の「カラオケ」にはどうしても馴染めないのです。
ところが、三十年前ぐらいだったでしょうか、読売テレビの大晦日の「○○人年忘れ、かくし芸大会」に引っぱり出され、死にもの狂いでやったのが、何と大蔵流狂言「柿山伏」。これが私のオハコなんです。
そこで私の「狂言物語」を聞いて頂きましょう。私が東京のある大学を出て、故郷に帰り、四代目の家業を継いだ、昭和九年頃です。先輩に教えられて、狂言のお稽古を始めました。お師匠さんは誰あろう、大蔵流狂言師で、当時の茂山千五郎師、御令息の茂山真一師です。お孫さんの七五三さんが現在の千五郎師なんです。わざわざ京都から岡山までお稽古に来て頂きました。岡山後楽園の能舞台での初舞台は「萩大名」の太郎冠者でした。当時、私は「山伏」ものが大好きで、一番得意なのが「柿山伏」。今でも広間のお座敷で、パーティがあると「おい石津君、得意の"柿山伏"を一曲やってくれよ」と必ず声がかかるのです。知らない人は何事かと不思議な顔をしているのを尻目に、私は大御機嫌で「兜巾」作りを始めるのです。
祇園の料亭でやった時は、水衣よろしくお女将の夏物の絹の着物を借り、御同席いただいた団十郎丈に着付けをお願いし、その酒席に出ているお銚子の黒塗りのハカマを組紐で、私の前頭にしばりつけまでやって頂いて、どこの家にもある数珠を片手に、橋がかりから常座に出て、「これは出羽の羽黒山より出でたる駆出の山伏です」と大見栄を切るのです。続いて「このたび大峰、葛城をしまい……」。突然の思いつきでやったのですが、独りでに「カヅラキ」と口に出て来るのです。決して「カツラギ」とは言いません。「貝をも持たぬ山伏が」の次第から始まって、「これが山伏の行力です」までを一気にやって、独り舞台を終えるのです。
習ったのが昭和九年ですから、今から数えて六十年も前のお稽古なんです。いくら下手な隠し芸とはいえ、「芸」というものは怖いものだと、つくづく思いながら、時には「題名のない音楽会」に出て、オーケストラをバックに「オールマンリバー」をスイング風にジャズったりして喜ぶことだってあるのです。

国立能楽堂プログラム 
1994年7月号 P2「私のかくし芸」より